寺田 学 (てらた まなぶ)
昭和51年9月20日生まれ
秋田県横手市出身
秋田県立横手高校
中央大学経済学部産業経済学科
三菱商事株式会社入社
衆議院議員に当選
(平成15年11月9日)
現在、3期目
187cm 81kg
A型
泥流地帯(三浦綾子)
後藤田正晴
旅、ドライブ
そば
カフェで読書
■
第174回国会
(通常国会)での所属
内閣委員会 委員
>所属委員会解説
■ 役職
内閣総理大臣補佐官
国土審議会特別委員<豪雪地帯対策分科会委員>
行政刷新会議事業仕分第1ワーキンググループ主査
■ 政策チーム
犬・猫等の殺処分を禁止する議員連盟:事務局
フリースクール議連:事務局次長
■ 党役職
民主党副幹事長
民主党秋田県連幹事長
民主党秋田県 第1区総支部長
※写真をクリックすると拡大します。
体重3800グラムで誕生。その後ぶくぶく太りだし、あだ名は「ぶくちゅん」。あまりに太りすぎて、近所では「あの子は立ち上がることは出来ないのではないか」との噂がたつほど。
とにかくやんちゃな子供だった。
人一倍多感で、すぐ怒り、すぐ泣く喜怒哀楽のはっきりしていた時期だったと思う。
誉められ、怒られ、いじめ、いじめられ、この時の体験が、今の自分に大きく影響していると思う。
小学校中学校を通して剣道に励んでいた。小学校の頃は市内大会で優勝したり、全国大会に出場したりと、一途に打ち込んだ。剣道を通じ、体力だけではなく、精神力、礼儀作法等を叩き込まれ、一つ強くなれたと思う。
好きな子は小、中学校通してたった一人だけ。恋には一途な少年。何回もふられました。
思いっきり青春を謳歌した高校時代。お陰さまで、我が家は横手高校に限らず、横手工業から大曲農業の生徒まで幅広く集合する憩いの場?であった。
この時代に得たものは知識より経験。友人も多数出来た時期である。
大学生の前半は、ただ単位を取得する日々だった。勉強以外に夢中になっていたことは海外旅行。バイトをしてお金を貯め、バックパック一つ背負って海外に行くことを繰り返していた。寝床は一泊500円とかのいわゆる貧乏旅行である。
特に東南アジアが大好きで、中でもカンボジアには4、5回訪問している。
なぜにアジアがそんなに好きなのか。それは、アジアには、人間の原点があるからだ。アジアの国は日本に比べ非常に貧しい。だが、彼らの多くは、私たちに日本人より幸せを感じているに違いない。朝起きて、働き、夕方には仕事を終え家族とご飯を食べる、そして共に寝る。単調に思われるこの生活が、実は非常に幸せなことだと毎回気づく。「生きるために生きる」そんな人間の原点を感じるアジアが大好きだ。
ちなみに今まで訪れた国、地域は、台湾、香港、マカオ、タイ、マレーシア、シンガポール、カンボジア、ベトナム、アメリカ、スウェーデン、イギリス、ベルギー、フランス、イタリア、スイス、ドイツ。
大学生活でもう一つ打ち込んだことがある。そしてこのことが、自分にとって大きな転機となった。
それは、様々な大学の学生が参加するゼミに加わったことだ。このゼミは講師がいるわけでもなく、学生が自ら運営し、趣向別の部会に分かれ、自らの興味対象を皆で議論する形の自主ゼミだった。当時30大学120名の学生が参加しており、東大生のような優等生から、元暴走族まで幅広い人材が集合していた。
このゼミの学生に共通することは、現状に不満をもった学生が多かったことだ。ゆえに、議論が絶えず、いざこざが絶えなかったが、その分、放出されるエネルギーも大きなものであった。このゼミで私は最大部会のリーダーと全体の副代表を勤めていた。非常に大変な仕事ではあったが、非常にやりごたえのある仕事でもあった。
配属は業務部。海外の拠点戦略の立案や、海外拠点のフォロー等々、非常に国際的な部署で、仕事内容が多岐にわたる部署だった。
その中でもアジアを担当するチームに配属され、マレーシアからインドネシア、フィリピン等を担当し、その国の政治状況から国内での流行まで、様々な分野の仕事をした。終電で帰宅する日も多く、激務ではあったが、ここでの経験のおかげで、より一層海外が身近なものに、そして、海外がより重要なことに気づいた。
「人の振り見て我が振りなおせ」という言葉があるように、他国を見ると、いかに日本が恵まれているか、そして、その恵みゆえに、呆けているかがわかる。
アジアの勢いは物凄い。日本がこの状態で、今ある豊かさを維持することはまず無理だということを強く感じた日々だった。精神的な豊かさは、既に日本人はアジアに負けていると学生時代に感じていたが、仕事を通してみると、経済的な面でも追い抜かれることは、ありえない話ではないと感じていた。
三菱商事での勤務は、日々勉強になり、知識以外にも、作法なり、技術なりを学ぶ機会が多々あった。このまま在籍していれば、語学研修のための海外留学、はたまた海外駐在など、普通の会社では経験できないことも待ち受けていたことだろう。
しかし、出来ないことはないだろうか、三菱商事の一員としてではなく、寺田学として出来ることはないか、そのような思いが募るようになり、退社するにいたった。色々な経験が待ち受けていただけに、未練は多少ある。しかし、自分らしく生きようと決断したことに後悔はない。