国会議員という立場ではありますが、私は、フジロックを毎年楽しみにしている一人です。
時間が許す限り、秋田から東京から、車で何時間もかけて新潟県苗場に駆けつけていました。急な仕事で東京に戻らなくてはならなくなり、一件の仕事を済ませてまた苗場にとんぼ帰りしたことも。何がそこまでと言われると、この場では書ききれないものなので、それはまたの機会に。
そのフジロックが、今年開催されたことに大きな批判が寄せられております。
開催地の新潟県には緊急事態宣言も蔓延防止措置も発令されてはいないとはいえ、コロナウイルスの全国的な感染拡大が進むなか、数万人の参加者が集うことへの批判が起こることは致し方ないと思います。
ただ、その批判の矛先が、主催者であったり、出演者であったり、そして参加者に向けられていることに、忸怩たる想いがあります。
何故なら、いま沸き起こっているフジロックに対する批判の根本的原因は、全て政治にあると考えているからです。
昨年の冬、新型コロナウイルス感染症患者が国内で初めて見つかってから今に至るまで、政治は、長期的な視野もなく準備を怠り、その場凌ぎの対策を繰り返してきました。度重なる緊急事態宣言の発令は、国民の緊張感を弛緩させ、その効果を大きく低減させました。そして、飲食店だけでなく、この種のイベントにも十分な補償を用意せず、判断を主催者の自主性に委ねて、責任と経済的な損失を当事者になすりつけてきました。
まさに、批判されるべきは、私を含めた政治家であると思います。
来月、北秋田市で予定されている高橋優氏の音楽フェスに関し、県が延期の要請をしたとの報道がありました。
今月行われる予定だった男鹿のナマハゲロックフェスも、市から直接的に、県から間接的に中止(延期)要請があり、中止の判断がされました。
感染拡大を防ぐための必要な要請だと理解はできますが、それならば、せめて損失補償と共に要請してもらいたい。
各地で続発するフェスの「中止」判断を、主催者の英断として称賛するだけではなく、その陰で苦しむ主催者や出演者、音響、映像、運搬、舞台業者、飲食や物販の提供者等の方々の窮状を見過ごすべきではありません。
国は、緊急事態宣言、蔓延防止の宣言がない地域のフェスに対して、補償制度の適用除外としています。現行の補償制度は十分なものではありませんが、せめて、この補償制度を地域の宣言の有無に関わらず国内全てのイベントに適用すべきです。
(以前より経産省の担当部局に働きかけを続けています)
事業者が補償なき自粛を求められ、はや一年半。
当時の政府もここまで長引くものと想定していなかったでしょうが、惰性でここまで続いています。
今回のフジロックに関する批判が、音楽を愛するもの同士でなされているのをみて本当に心が痛み、そして私たち政治家の責任を重く再認識しております。
私自身、コロナ禍の当初から、普段政治と関わりのない音楽業界の支援の為に走り回ってきましたが、ご覧の通り、全く不十分なままです。
たかが音楽、と言われる方もおりました。
でも、アーティストやファンを含め、音楽を生きがいに頑張っている人たちの存在を政治は忘れてはいけないと思います。
最後に改めて。
フジロックが今年開催されたことを擁護しているのではありません。
開催に伴う、批判を生み出している責任は政治にあるということを申し上げたいのです。
そして、国民の自主性に委ねて、国としての責任を果たしていない今の政治に改めて強い問題意識を持っております。
引き続き、努力してまいります。
写真は、5年前のフジロック。
森の中を歩く息子。