TERATA MANABU

1976年(昭和51年)秋田県横手市生まれ。
横手高校、中央大学経済学部を卒業後、三菱商事に入社し、海外事業の拠点作りに参画。
2003年、秋田1区から衆議院議員に初当選。現在、在職15年を超えた。立憲民主党。

国会では財務金融委員会、外務委員会にて筆頭理事を務め、政府においては内閣総理大臣補佐官に二度就任。内閣総理大臣補佐官在任時には、震災対応や雇用対策、待機児童対策、行政改革や社会保障の充実などに尽力した。秋田港の日本海側拠点港湾指定や日沿道の全線開通、卸売市場や太平低温倉庫の整備などを実現した。2013年、落選中に息子を授かり、育児に専念、主夫となる。翌年の再選後は、在外公館や海外進出企業の環境改善などの外交地盤強化と併せて秋田産品の海外展開にも寄与。ライフワークは教育の多様化。超党派議員連盟の事務局長として不登校やフリースクールの支援を通じ、多様な教育機会の確保のために奔走している。イージス・アショアの新屋配備計画については、国会質問や地域住民との協働を通じて、当初から反対の立場で取り組んだ。妻と息子(小学生)の3人家族。

個人データ

体格187cm 85kg血液型A型
好きな本泥流地帯(三浦綾子)尊敬する人物後藤田正晴
趣味登山、自転車好きな食べ物そば

  • MY CHILDHOOD

    1976年9月、体重3800グラムの巨大な赤ん坊として誕生。9歳上の姉、6歳上の兄がいる末っ子。
    赤ん坊の頃からブクブク太り、あだ名は「ぶくちゃん」。あまりにも太り過ぎて、近所では「あの子は立ち上がることが出来ないのではないか」と噂された。

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  • ELEMENTARY SCHOOL & JUNIOR HIGH SCHOOL DAYS

    横手南小学校、南中学校に進む。とにかくやんちゃな子供だった。
    人一倍多感で、すぐ怒り、すぐ泣く喜怒哀楽のはっきりしていた時期だったと思う。小学校2年生のとき、鉄棒から落ちて大流血、小学校4年生の時に兄と喧嘩してこめかみ付近から大流血と、全く大人しくなかった。親がこっそり「3人目は持つつもりはなかった」と話しているのを聞いてしまい、傷ついたことも。父に歳が6つ違いの兄と能力を比べられ、悔しい思いをしたこともあった。

    小学校中学校を通して剣道に励んでいた。小学校の頃は市内大会で優勝したり、全国大会に出場したりと、一途に打ち込んだ。剣道を通じ、体力だけではなく、精神力、礼儀作法等を叩き込まれ、強くなれたと思う。その頃からの仲間は今でも親友。

    中学校の一時期、不登校だったこともある。他の人をいじめたこともあったが、仲良しグループの中でいざこざがあり、徹底的にいじめられた時期もあった。クラスの写真に飾ってあった自分の顔に画鋲が刺されていたり、死ねと書かれていたことも。大勢がはやし立てる中でトイレに呼ばれ、喧嘩になったこともあった。ひとりで給食を食べ、誰とも話さず帰る日もしばしば。大概のことには耐えることができたが、席替えで密かに心を寄せていた女子の近くの席となった時、その子が嫌な顔をしたのは物凄く堪えた。全部なくなってしまった気がした。

    それでも、その様子を察知した母が、学校を休みたい時には休ませてくれ、無事時は過ぎていった。今思えば不登校であった時期が些細なことのように思えるのは、母のお陰かもしれない。加えて、この不登校の経験が子供と学校のあり方を考える原点ともなり、超党派で不登校児やフリースクールを支援する議員連盟を運営する原動力ともなった。

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  • YOKOTE HIGH SCHOOL DAYS

    入学してすぐ、学業についていけないと自己嫌悪に陥り、退学を考えた。本気で転校先を探し、北海道にまで見学に行ったこともあった。
    ただ、その後、個々人に委ねてくれる自由な校風に助けられ、友人と青春を謳歌した。家にはいつも横手工業高校や大曲高校など複数の学校の仲間が集い、憩いの場?になっていた。この時代に得たものは知識より経験。多くの友人に恵まれ楽しい時期だった。麻雀も覚えた。役満をあがったことはないが、四暗刻単騎のダブル役満に振り込んだことはある。小原県議はこの頃からの付き合いで今も親友。

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  • CHUO UNIVERSITY DAYS

    大学生の前半は、ただ単位を取得する日々だった。勉強以外に夢中になっていたことは海外放浪。バイトをしてお金を貯め、バックパック一つ背負って海外を見て回った。当時訪れた国、地域は、台湾、香港、マカオ、タイ、マレーシア、シンガポール、カンボジア、ベトナム、アメリカ、スウェーデン、イギリス、ベルギー、フランス、イタリア、スイス、ドイツ。特に東南アジアが大好きで、中でもカンボジアは4、5回訪問している。アジアには人間の原点があると感じた。当時、アジアの国は日本に比べ非常に貧しかった。だが、彼らの多くは、私たち日本人より幸せを感じているように見えた。朝起きて、働き、夕方には仕事を終え家族とご飯を食べる、そして共に寝る。単調に思われるこの生活が、実は非常に幸せなことだと行くたびに気づかされた。「生きるために生きる」。そんなシンプルな人間の原点を感じるアジアが今でも大好きだ。

    大学生活でもう一つ打ち込んだことがある。そしてこのことが、自分にとって大きな転機となった。それは、様々な大学の学生が参加するゼミに加わったこと。このゼミは講師がいるわけでもなく、学生が自ら運営し、趣向別の部会に分かれ、自らの興味対象を皆で議論する形の自主ゼミだった。私の最初のプレゼンは「第三セクターについて」。当時30大学120名の学生が参加しており、東大の優等生から、元暴走族の経歴をもつ学生まで幅広い人材が集合していた。このゼミには現状に不満をもった学生が集まった。ゆえに、議論が絶えず、いざこざが絶えなかったが、その分、放出されるエネルギーも大きなものであった。

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  • MITSUBISHI CORPORATION DAYS

    とにかく、海外に関わる仕事がしたいと熱望して就職活動に励み、数々の商社の門を叩き続け三菱商事に入社した。配属は業務部(地域統括部)。海外の拠点戦略の立案や、地域の専門家を育成するなど、非常に国際的な部署で仕事内容は多岐に渡った。
    その中でもアジアを担当するチームに配属され、マレーシアからインドネシア、フィリピン等を担当。配属初日にインドネシアで政権交代があり、新閣僚それぞれに英語で祝電を用意するのが最初の仕事だった。その国の政治状況から国内での流行までを把握し、様々な分野の仕事をした。終電で帰宅する日も多く、激務ではあったが、ここでの経験のおかげで、より一層海外が身近なものに、そして、海外がより重要なことに気づいた。

    アジアの勢いは物凄い。日本がこの状態で、今ある豊かさを維持することはまず無理だということを強く感じた日々だった。精神的な豊かさは、既に日本人はアジアに負けていると学生時代に感じていたが、仕事を通してみると、経済的な面でも追い抜かれることは、ありえない話ではないと感じていた。三菱商事での勤務は、日々勉強になり、知識以外にも、作法なり、技術なりを学ぶ機会が多々あった。このまま在籍していれば海外駐在など、なかなか経験できないことが待ち受けていただろうと、いまでも思う。ちなみに、同じ部署の先輩に自民党の福田達夫衆議院議員が在籍していた。

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  • TO POLITICAL WORLD

    「人の振り見て我が振りなおせ」という言葉があるように、他国を見ると、いかに日本が恵まれているか、そして、その恵みゆえに、呆けているかがわかる。仕事で他国の財政や経済を調査すると、必然的に自分の国の状態も分かった。三菱商事の一員としてではなく、寺田学として出来ることはないか、そのような想いが募り、退社するにいたった。会社では色々な経験が待ち受けていただけに、未練は多少ある。しかし、自分らしく生きようと決断したことに後悔はない。

    もともと、政治を目指すつもりはなかった。むしろ、父が政治の仕事をしていたことで政治の世界には絶対に入るまいと思っていた。
    でも、きっかけがあった。
    雪の降るある日、大学時代に所属していた自主ゼミの先輩がルームシェアしていた私の家を訪ねてくる。内容は「政治の世界に飛び込もうと思うのだが、寺田の意見を聞きたい」というもの。その先輩は元暴走族と経歴を紹介するだけでは物足りないほどの問題児だったけれど、ある恩人の「一度は陽の当たるところを歩いてみなさい」という言葉をきっかけに、九九から学び直し大検を受け、大学に入った人。その人生経験から多くの大手ゼネコンから引手数多で、入社した某大手ゼネコンでは当時の人気漫画「サラリーマン金太郎」の実写版のような会社員生活を送っていた。がむしゃらに働くさなか、ふと故郷を振り返ると、昔一緒に悪さしていた仲間が、いまだその世界から抜け出せていないことに気づき地元の教育を変えるべく、退職して政治家になりたい、と私に相談にきた。

    私は、徹底的に反対した。政治に携わる父の姿から見える政治の理不尽さを先輩に説いた。何をしても叩くマスコミ、真意を理解してくれない苦悩、多額の資金がかかる選挙、おかしいことだらけの政治の世界を一晩かけて先輩に説いた。「やっても意味ないですよ」「いまの会社で出世した方が絶対良い」と。だいたい話し終わり、およそ説得できたと確信した明け方に先輩に言われる。「寺田は、それほど今の政治がおかしいと解っているのに、なぜ、自分で解決しようとしないのか」と。
    合わせて「おかしいと思った人が解決しなければ、世の中何も変わらない」との言葉も。返す言葉がなく、沈黙した。
    政治に飛び込もうとする先輩を止めるはずが、自分が飛び込むことになった。考えを180度転換して政治に飛び込むスイッチが押された時だった。

    ちなみに、私のスイッチを押した先輩は、結局政治の世界には飛び込まず、地元で小さな学習塾を開いた。少年院から出てきたばかりの少年少女や、大人になって学び直したい人に、イロハから手取り足取り勉強を教える塾だ。先輩自身の人生を変えた恩人の「一度は陽の当たるところを歩きなさい」との言葉を、他の子供たちにもと始めた。「人の選挙を多数手伝ったが、自分には合わないと思ったから自分のやり方でやる」とさっぱり政治の道は諦めた。その塾は、今ではテレビでも取り上げられるほどの有名な塾となった。

    20年ほど前の出来事だけれども、先輩とは別の道を歩みながら、お互い、その日の会話の延長線を歩いている。

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